この話をどう受け取るか

正直に言っておく。漫画の「予言」話の大半は、探せば出てくる類のものだ。長大な作品には数千コマがある。その中から現実と重なる場面を探せば、何かしら見つかる。これは確証バイアスそのものだし、このサイトで繰り返し書いてきたことでもある。

それでも取り上げたいのは、構造が面白いからだ。このサイトに記録している予言者たちと、漫画家の「予言」は、本質的に同じ仕組みで機能している。両者とも時代の深部にある不安や期待を言語化し、それが後から現実と重なったとき「当たった」と呼ばれる。違うのは意図の有無だけかもしれない。

AKIRAと2020年──一番有名な例として

ネオンに照らされた近未来都市とカウントダウン看板のイメージ

大友克洋の「AKIRA」は1982年からの連載で、1988年に劇場アニメになった。舞台は「第三次世界大戦後のネオ東京」、時代設定は2019年。この映画の中に、ある看板が登場する。東京オリンピックの開催まであと何日、という内容のカウントダウン看板で、そこに刻まれている年が「2020」だった。

実際に東京オリンピックは2020年に開催された。COVID-19の影響で1年延期され観客なしという形になったが、確かに「2020東京五輪」は現実になった。1988年から見れば32年後の未来を、大友克洋は正確に指差していたことになる。さらに映画の看板には「開催まであと147日」の文字とともに「中止だ中止」という落書きが描かれており、延期・無観客という異例の開催をめぐる騒動まで含めて「当てた」とSNSで大きな話題になった。

この「一致」が単純な偶然とは言い切れない理由がある。大友が2020という数字を選んだのには文脈があった。東京は1964年にオリンピックを開催した。その56年後、次の節目として2020という数字は当時から「あり得る未来」として語られていた。大友が適当に数字を選んだのではなく、当時の社会的な文脈を読んだ結果として2020を選んだとすれば、これは「予言」というより「精度の高い観察」だ。

それ以上に引っかかるのがパンデミックの描写だ。AKIRAでは生物兵器や変異体による社会崩壊が描かれる。2020年前後に感染症によって世界が一変した事実と並べると、「オリンピックだけでなく社会の大混乱も含めて当てていた」という読み方ができてしまう。こうなってくると、もうただの数字の一致では済まなくなる。

オインゴボインゴと、フィクションの予言装置

荒木飛呂彦の第3部「スターダストクルセイダーズ」(1989〜1992年)に、ボインゴという少年が登場する。彼のスタンド「トト神(Thoth)」は一冊の漫画本の形をしており、そのページに現れるコマが近未来を予言する。作中でその予言は必ず的中し、ボインゴと兄のオインゴはそれを利用して主人公たちを罠にはめようとする。

このエピソードがファンの間で繰り返し話題になるのは、トト神の予言コマが9/11(2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ)と重なって見える、という指摘があるからだ。連載は1991〜92年で、事件より約10年前にあたる。コマの具体的な内容については「似ている」「こじつけだ」と見方が分かれており、私自身も断言できる立場にない。

それでもこのエピソードが妙に引っかかるのは、構造のせいだ。荒木は「漫画の形をした予言スタンド」というフィクションを作り、そのスタンドのコマを実際に描いた。つまり「漫画家が、漫画の中の予言装置として、漫画のコマを描いた」という入れ子になっている。その入れ子の最内側にあるコマが、現実の事件に似ていると言われる。

「荒木先生は予知能力がある」というネットミームが、このエピソードに限って妙な重みを帯びるのはそのためだと思う。荒木はボインゴに「漫画で未来を予言する能力」を与えた。そして荒木自身が描いたそのスタンドのページが、未来と重なったかもしれない。作者がキャラクターと同じ能力を持っていたかのような構造が、意図せず出来上がっている。

そして「意図した」予言漫画——『私が見た未来』という本丸

開かれた漫画のページから波が立ち上がる幻想的なイメージ

AKIRAとジョジョが「意図せず当ててしまった」漫画だとすれば、日本にはその対極——最初から予知を意図して描かれ、実際に社会を動かした漫画が存在する。たつき諒の『私が見た未来』だ。

1999年に出版されたこの作品の初版表紙には「大災害は2011年3月」という文字が描かれており、東日本大震災(2011年3月11日)の後に「予言していた漫画」として再発見された。絶版だった原作は高騰し、2021年の完全版は続く「2025年7月」の記述で列島を巻き込む騒動を起こした——その顛末は考察「7月5日の予言は『外れ』で終わりにしていいのか」で詳しく検証したとおりだ。

ここで重要なのは、『私が見た未来』が漫画というメディアの「記録性」を最大限に活用した点だ。夢日記を漫画化して出版することで、予言は「言った・言わない」の水掛け論を超えた、日付つきの物理的な証拠になった。予言の検証で最も重要な「事前性」——出来事より前に記録されていたこと——を、漫画単行本という形式が担保したのである。本サイトが数百件の予言に対してやろうとしている「事前の記録」を、一冊の漫画が期せずして実現していた。

大友と荒木、そしてたつき諒——三つの「当たり方」

三人の作家を並べると、面白いことがある。大友克洋の「当たり方」は計算的だ。社会の文脈を読み、1964年東京五輪から逆算して2020という数字を選んだ。パンデミックに似た混乱を描いたのも、生物科学への不安が当時の空気の中にあったからだろう。観察と推論の結果が、後から「予言」に見えた。

荒木飛呂彦の「当たり方」は、もっと奇妙な経路をたどる。「予知する漫画」というフィクションを作ったら、そのフィクション自体が予知してしまった。大友が意図を持って未来を描いたとすれば、荒木は意図せず予知の仕組みを実装してしまった側だ。

そしてたつき諒は、最初から「これは予知夢の記録だ」と宣言して描いた。三者の意図はバラバラなのに、読者の側から見れば全員が「未来を当てた漫画家」の棚に並ぶ。「予言」というラベルは、作者の意図ではなく、受け手の事後的な発見によって貼られる——この構造が、三人を並べるとくっきり見えてくる。

なぜ漫画は「当たる」のか——数千コマの母数と、検索可能になった過去

種明かしめいたことも、公平に書いておかなければならない。長期連載の漫画には数千ページ、数万コマがある。日本だけでも毎年膨大な数の作品が出版され、そのすべてが「未来と照合可能な描写の母数」になる。何か大きな事件が起きたとき、この巨大なアーカイブのどこかに「似ているコマ」が見つかる確率は、直感よりはるかに高い。考察「予言はなぜ『当たる』のか」で解剖した構造——外れた大多数は語られず、当たった一例だけが拡散する——が、ここでも完璧に働いている。

さらに現代特有の増幅装置がある。デジタル化とSNSによって、過去の全コマが「検索可能」になったことだ。海外では『ザ・シンプソンズ』が「予言アニメ」として繰り返しバズるが、あれも30年分・700話超のアーカイブから事後に「発見」される仕組みで、構造は同じだ。かつては熱心な読者の記憶に頼っていた「あの漫画に似た場面があった」という照合作業を、今は全世界が数分で実行できる。漫画の予言が近年になって急に「増えた」ように見えるのは、漫画が予知能力を持ち始めたからではなく、私たちの発見能力が跳ね上がったからだ。

フィクションが予言になる日

予言者と漫画家の違いは何か。予言者は「これが起きる」と断言する。漫画家は「これが起きるとしたら」と問いながら描く。後から見れば、その区別はどうでもよくなる。大友も荒木も、優れた観察者だったことは確かだ。社会の深部にある不安や時代の気配を読み取り、それを物語として形にした。それが後から現実と重なったとき、私たちは「予言だった」と感じる。でも実際には、私たちが薄々知っていたことを、誰かが先に言葉にしてくれただけなのかもしれない。予言者がやっていることと、漫画家がやっていることは、根っこのところで同じなのだと思っている。

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「意図した予言漫画」の現物を確かめたい人は、『私が見た未来 完全版』を手に取ってみてほしい。予言として読むか、夢日記という表現形式の実験として読むか、社会現象の一次資料として読むか——どの読み方をしても、漫画というメディアが持つ「未来を記録する力」の不思議さに突き当たるはずだ。

本記事は『AKIRA』『ジョジョの奇妙な冒険』『私が見た未来』ほか漫画作品と現実の出来事の符合を扱った考察コンテンツです。作品の意図・作者の思想を断定するものではなく、大友克洋氏・荒木飛呂彦氏・たつき諒氏ほか制作者・出版社を批判・推奨するものでもありません。掲載内容はエンターテインメントおよび教育目的の情報提供です。本記事の内容を投資・防災・信仰的判断の根拠として使用しないでください。