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9月1日が「防災の日」である理由
毎年9月1日は防災の日だ。学校や職場で訓練が行われ、防災用品の売り場が拡大するこの日が、1923年の関東大震災の発生日に由来することは広く知られている。
だが、その震災を18年前に警告していた人物がいたこと、そしてその警告が学界と世論から徹底的に否定されていたことは、あまり語られない。
本サイトはこれまで、地震雲やトカラの法則といった前兆言説を検証し、そのほとんどに根拠がないことを確認してきた。今回はその逆の事例を扱う。根拠が十分にあり、手法も正当で、結果として的中した警告が、なぜ黙殺されたのか。予言をめぐる問題の、もう一つの側面である。
1905年、雑誌『太陽』の論考
今村明恒は1870年、鹿児島に生まれた地震学者である。1891年の濃尾地震を機に設立された震災予防調査会に加わり、過去の地震記録の整理と解析に取り組んでいた。
1905年、彼は総合雑誌『太陽』に一本の論考を寄稿する。表題は「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」。内容はこうだった。
調査会が集めた記録を解析すると、関東地方では大地震が周期的に発生している。その周期から見て、今後50年以内に東京を大地震が襲う可能性が高い。そして——ここが彼の主眼だが——木造家屋が密集する東京では、地震動そのものより、その後に発生する火災によって人的被害が拡大する。だから水道の耐震化と消防体制の整備を急げ。
注意深く読むと分かるが、これは予言ではない。日時の特定はなく、示されたのは「50年以内」という幅である。手法は過去データの統計解析であり、霊感でも夢でもない。そして目的は当てることですらなく、被害を減らすことだった。
「ホラ吹きの今村」——大森・今村論争
ところが、この論考は思わぬ方向へ転がる。新聞が「東京が壊滅する」という調子で扇情的に報じ、社会不安が広がったのだ。
ここで動いたのが、震災予防調査会の中心人物であり、今村の上司にあたる大森房吉だった。大森は当時の日本地震学の第一人者であり、地震計の開発でも国際的に知られた権威である。彼は今村の説を「世情を動揺させる浮説」として公然と否定した。
結果、今村は学界で孤立する。「ホラ吹きの今村」という中傷が長く付きまとい、彼の警告は真剣な検討の対象から外された。この対立は後に「大森・今村論争」として地震学史に記録されることになる。
公平に言えば、大森の判断にも理はあった。地震の予知が科学的に不可能であることは当時も認識されており、根拠の不確かな警告が社会不安を煽ることへの警戒は、専門家として自然な反応でもある。考察「トカラの法則は本当か」で見たとおり、現代の気象庁も同じ理由で前兆言説を否定し続けている。問題は、大森が否定した相手が、根拠のある側だったことだ。
1923年9月1日午前11時58分
18年後。1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が関東地方を襲った。
死者・行方不明者は約10万5000人。この数字の内訳が、今村の警告の正確さを残酷なほど裏づけている。犠牲者の9割近くが、建物の倒壊ではなく火災による死者だった。昼食時で火を使う家庭が多かったこと、木造家屋が密集していたこと、そして水道管が破断して消火活動が機能しなかったこと——18年前に彼が指摘した条件が、そのまま現実になった。
このとき大森房吉は、学会出席のためオーストラリアのシドニーにいた。現地の観測所で母国の大地震を知った彼は、急ぎ帰国の途につく。だが船中で体調を崩し、帰国後まもなく入院。同年11月に世を去った。
一方の今村は震災直後から現地調査と復興提言に奔走し、やがて「地震の神様」と呼ばれるようになる。汚名は晴れた。だが——
「当たった」ことに意味はあったのか
ここが本稿の核心である。今村の警告は正しかった。手法も正当だった。18年という猶予もあった。それにもかかわらず、その警告によって救われた命は、ほとんどなかった。
水道の耐震化は進まなかった。消防体制も強化されなかった。木造家屋の密集も解消されなかった。彼が「これをやれば被害は減る」と具体的に示した対策は、18年間ほぼ実行されないまま、その日を迎えた。
つまり予言が的中したことと、社会が救われたことは、まったく別の話だった。この事実は、予言を扱うサイトとして記録しておかなければならない。本サイトは予言の「当たった/外れた」を判定し続けているが、今村の事例は、その判定に何の意味があるのかを突きつけてくる。当たっても誰も助からなかったのだから。
なぜ正しい警告は届かなかったのか
理由は複数ある。新聞の扇情的な報道が「不安を煽る話」という枠に押し込んだこと。権威者による否定が学問的な検討を止めたこと。そして——おそらく最も大きいのは——「50年以内」という時間の幅が、人間の切迫感には長すぎたことだ。
これは現代にそのまま当てはまる。政府が公表する南海トラフ地震の発生確率は「30年以内に70〜80%」である。科学的にはきわめて高い数字だが、「30年以内」と言われて今日行動を変える人は多くない。詳しくは特集「南海トラフ大地震を予言した人々」にまとめたとおりで、私たちは今村の同時代人と同じ場所に立っている。
興味深い対比がある。日付を特定した予言——2026年8月12日の「重力消失」のような——は、根拠がなくても人を動かす。実際、あのときは防災用品の検索が増えた。一方、根拠のある確率的な警告は、期日がないために先送りされる。人を動かすのは正確さではなく、締め切りなのだ。
だとすれば、根拠のない日付予言にも皮肉な効用があるのかもしれない——そう考えかけて、やはり違うと思い直す。デマで動く備えは、デマが外れた翌日に忘れられるからだ。8月13日以降、あれほど話題になった無重力デマを覚えている人はもういない。
今村が本当に言いたかったこと
今村は関東大震災の後、次の巨大地震へ目を向けた。南海トラフ沿いの地震周期に着目し、私財を投じて紀伊半島に観測所を設けるなど、観測網の整備に生涯を費やした。1944年の東南海地震、1946年の南海地震は、いずれも彼の警戒の範囲内で起きている。
彼が繰り返し語った言葉が残っている。
災害予防のこと、一日も猶予すべきにあらず
この言葉には、予知への言及がない。彼が生涯こだわったのは「いつ来るか」ではなく「来たときにどうするか」だった。地震は止められない。だが死者は減らせる——それが彼の主張のすべてだった。
1948年元日、今村明恒は77歳で没した。
防災の日に、記録しておくこと
本サイトはこれまで、外れた予言を数多く記録してきた。ジュセリーノのビッグワン、ハミルトン=パーカーのガス雲、8月12日の重力消失。いずれも期日が過ぎ、何も起きなかったことを書き残した。
今村明恒の事例は、その逆側にある。当たったのに、意味をなさなかった警告だ。そして本サイトの見立てでは、こちらのほうが重い教訓を含んでいる。
予言が当たるかどうかは、実のところ大した問題ではない。問われているのは、不確実な未来に対して、今日どう振る舞うかだけである。地震は必ず来る。それは予言ではなく、この列島に住む者の前提だ。今村が18年前に言ったこと——水を確保し、火を防ぎ、逃げる準備をしておくこと——は、120年経っても何ひとつ変わっていない。
9月1日は、その当たり前を思い出すために置かれた日である。訓練に参加する、備蓄を点検する、家具の固定を確認する。今日できることは、それだけで十分だ。
正確な防災情報は、気象庁・内閣府防災担当・お住まいの自治体の発表を確認してほしい。予言でも警告でもなく、それが最も確かな情報源である。