2026年8月、大手町で起きたこと
東京都千代田区大手町。オフィスビルに囲まれた一角に、平将門の首を祀るとされる塚がある。将門塚である。
2026年8月19日、配信プラットフォームKickの配信者が、この塚の石碑によじ登り、奇声を発する配信を行った。映像はSNSで急速に拡散し、批判が集中した。
その後の経緯は報道されている。
8月19日 配信。石碑によじ登る様子が拡散し炎上
8月22日 所属していた配信者団体が脱退処分を発表
その後 警察が礼拝所不敬罪などで捜査
ネット上では、この経緯が「3日で罰が当たった」として語られた。将門塚には祟りがある。触れた者には報いがある——そういう文脈である。
本記事はこの言説を検証する。行為そのものの是非は論じない。すでに処分と捜査という形で社会的な決着がついており、本サイトが付け加えることはない。検証するのは「祟り」という説明が成立するかだけである。
「3日で罰が当たった」の中身
まず今回の一件から。3日後に起きたのは、団体の脱退処分と警察の捜査である。
この二つは、いずれも人間が判断して起こしたものだ。映像が拡散し、批判が集まり、団体が処分を決め、警察が動いた。因果関係は最初から最後まで地上にある。
祟りという言葉を持ち出す必要がどこにもない。むしろ逆で、祟りを持ち出すと説明が悪くなる。 「塚が怒った」と言うと、実際に処分を決めた人々の判断が消えてしまう。
ここで終わってもいいのだが、それでは面白くない。そもそも将門塚の祟り伝説は、どこまで確かなのか。 今回の一件を「3日で罰」と読ませたのは、100年かけて積み上げられたその伝説である。そちらを検証する。
祟りの代表的な逸話を、年表に置く
将門塚の祟りとして語られる話は、だいたい次の三つに集約される。
① 大蔵省仮庁舎 関東大震災後、塚をつぶして仮庁舎を建てたところ、大蔵大臣以下、官僚や工事関係者が次々に死亡した
② 落雷 1940年、大蔵省庁舎が落雷で焼失した。将門の没後ちょうど1000年だった
③ GHQ 戦後、米軍が駐車場にしようとしたところ、ブルドーザーが横転して運転手が死亡した
①から見る。塚がつぶされて仮庁舎が建ったのは、1923年の関東大震災の後である。そして「次々に死亡した」とされる人物の記録を確かめると、こうなる。
大蔵大臣・早速整爾 急死は1926年。仮庁舎建設の3年後。しかも彼は建設に関わっていない
工事部長・矢橋賢吉 死亡は1927年。建設の4年後
「次々に」と呼べる密度ではない。 3年後と4年後である。しかも大臣は工事と無関係だった。
大正末から昭和初期は、感染症も多く平均寿命も短い。要職にある人物が数年のうちに亡くなること自体は、この時代には珍しくない。塚を持ち出さなくても説明のつく範囲に収まっている。
1940年の落雷は、塚に落ちたのではない
次に②。1940年、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失した。将門の没後1000年——数字の一致は確かに印象的である。
だが、当日の状況を確かめると話が変わる。
この日、東京では約20か所で落雷が観測されている。 そのうちの一つが航空局に落ちて火災が発生し、それが延焼した結果として大蔵省庁舎が焼けた。
落雷は塚にも大蔵省庁舎にも落ちていない。20か所のうち1か所が別の建物に落ち、火が広がった。
「将門塚に雷が落ちた」わけではないし、「大蔵省を狙った」わけでもない。雷は20か所に落ち、そのうちの一つの火が隣まで来たという話である。
そして1000年目という数字については、こう考えたほうがいい。1000年目でなければ、誰もこの落雷を数えなかった。 節目の年に何かが起きると、人はそれを結びつける。本サイトは確証バイアスの記事でその癖を扱った。
では、祟り伝説はいつ生まれたのか
ここが本記事のいちばん重要な部分である。この伝説は、思われているほど古くない。
明治後期から大正にかけて、この場所が「将門の墓」として広く認識されるようになった。1903年には史跡として認定されている。
だが、当時この場所に貼り付いていた文脈は祟りではなかった。逆賊とされた将門の汚名を返上しようという啓蒙的な運動であり、記録にオカルト的な要素は見あたらない。それ以前はさらに素朴で、「以前に神田明神があった場所」あるいは「奥女中が縁結びを願った将門稲荷」程度の扱いだった。
祟りの物語が立ち上がるのは、その後である。
第1次ブーム 1920年代後半〜1940年
関東大震災で塚が損壊し、仮庁舎が建設される。工事関連の死亡が新聞で「祟り」として報じられる。1927年に石碑が建立され、翌1928年3月27日に鎮魂祭が行われた。1940年の落雷焼失が、この流れの締めとなる。
第2次ブーム 1975〜1976年
1975年、雑誌『微笑』が「なんと! 平将門の首の怨霊が生きていた!」と題する記事を掲載。翌1976年には三井物産ビル建設に伴う整備工事と、NHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の放送が重なった。
1976年前後の記事は、当時の週刊誌をたどれば残っている。『週刊平凡』『週刊サンケイ』『週刊ポスト』『財界』——同じ年に一斉に将門の怨霊を扱っている。
つまりこうなる。大河ドラマで将門の人気が再燃し、同時にビル工事が始まり、週刊誌がそこに怨霊を接続した。 いま我々が「昔から言われている祟り」と思っているものの多くは、この時期に形を得たものである。
2026年は、3日でそれをやった
整理すると、将門塚の祟り伝説は次の順序で作られてきた。
出来事が起きる(工事、死亡、落雷、事故)
↓
メディアが塚と結びつける(新聞、週刊誌)
↓
「昔から祟りがある場所」として定着する
この順序に注目してほしい。祟りが先にあって出来事が起きたのではない。出来事が起きたあとで、祟りが遡って作られている。
そして2026年8月の一件は、まったく同じ構造をしている。配信があり、炎上があり、処分があった。そのあとで「3日で罰が当たった」という説明が乗った。
違うのは速度だけである。1976年に週刊誌が数か月かけてやったことを、2026年のSNSは3日で終わらせた。
本サイトの見立て
確かめられたことを並べる。
今回の一件 3日後に起きたのは脱退処分と警察の捜査。いずれも人間の判断である。
大蔵省の逸話 大臣の死は3年後で工事に無関係、工事部長は4年後。「次々に」の密度がない。
1940年の落雷 当日の落雷は東京で約20か所。塚にも大蔵省にも落ちていない。航空局からの延焼である。
伝説の年齢 明治期の記録にオカルト要素はない。1920年代後半と1976年、二度のメディア報道で形を得た。
ただし、いつものように留保をつける。本サイトは「祟りはない」と証明したわけではない。 目に見えない力の不在は原理的に証明できない。できるのは、語られている根拠を一つずつ確かめることだけである。
そして確かめた結果を言えば、祟りを持ち出さなくても、すべての逸話に説明がついた。
最後に、誤解のないように書いておく。この結論は「石碑によじ登っていい」という話ではまったくない。 祟りがあるかどうかと、他人が大切にしている場所をどう扱うかは、別の問題である。前者は検証の対象だが、後者は検証を待つ必要がない。
将門塚は、1000年以上前に非業の死を遂げた人物を悼むために作られ、以後ずっと誰かの手で守られてきた場所である。そこを敬うべき理由は、祟りが怖いからではない。 100年分の伝説を全部剥がしても、その理由だけは何も減らずに残る。