経歴・人物

ルシア・デ・ジェズス・サントスは1907年、ポルトガル中部のアジュストレルで農家の子として生まれた。1917年5月13日、羊飼いをしていた10歳のルシアは、いとこのフランシスコ(9歳)・ヤシンタ(7歳)とともにコヴァ・ダ・イリアという牧草地で白い光の中に現れた「美しい婦人」を目撃したと報告した。

以後10月13日まで毎月13日に出現があり、最後の出現時には「太陽の奇跡」として約7万人の群衆が太陽が踊るような現象を目撃したとされる。この出来事はカトリック教会により1930年に「信仰に値する」と認定された。

3つの秘密のうち、第一の秘密は地獄のビジョン、第二の秘密はロシアの過ちの広まり(共産主義)とそれに続く悪の広まり・第二次世界大戦の预言とされる。第三の秘密はルシアが文書に書き留め、1960年まで開封しないよう指示したが、バチカンは2000年に公開。白い衣を着た司教が倒れる場面は1981年のヨハネ・パウロ2世暗殺未遂と関連するとされた。

フランシスコとヤシンタは1918〜20年にスペイン風邪で死去。ルシアは修道女となり、スペインのポンテベドラ、後にポルトガルのコインブラのカルメル会修道院で生涯を過ごした。2005年2月13日、97歳で死去。

「秘密」はいつ、どのように書かれたか

ファティマの予言を検証するうえで重要なのは、記録の成立時期である。1917年の出現時、ルシアはまだ10歳だった。三つの秘密が文書として書き留められたのは1941年から1944年にかけて、教会当局の指示を受けてのことである。つまり出来事から20年以上を経た後の回想であり、第二の秘密に含まれる「ロシアの過ち」「第二次世界大戦の勃発」は、執筆時点で既に現実になっていた。この時間差は、予言の事前性を評価するうえで無視できない。

第三の秘密は1944年1月に書き留められ、封書のまま「1960年までは開封しないように」と付言された。しかし1960年、教皇ヨハネ23世は公開を見送る。この沈黙が、その後40年にわたる憶測の温床となった。

第三の秘密をめぐる論争

バチカンが第三の秘密を公開したのは2000年6月26日である。内容は、白い衣をまとった司教が銃弾と矢に倒れるという幻視で、当時のソダーノ枢機卿はこれを1981年のヨハネ・パウロ2世暗殺未遂と結びつけて説明した。

だが、これで論争は終わらなかった。一部の論者は「公開されたのは秘密の一部にすぎず、教会の背教を示す本文が伏せられている」と主張し続けている。根拠として、ルシアの書簡に見られる分量の記述の食い違いなどが挙げられる。一方でルシア本人は、2000年に当時のベルトーネ大司教と面会した際、公開された内容が第三の秘密のすべてであると確認したと記録されている。彼女は2005年に97歳で世を去るまで、この件について自ら公に語ることはほとんどなかった。

本サイトの評価

ファティマ予言は、本サイトが扱う事例の中でも特異な位置にある。数万人規模の目撃者がいる「太陽の奇跡」という物理的現象を伴い、カトリック教会という巨大組織が公式に「信仰に値する」と認定した——ここまでの公的な裏付けを持つ予言は他にほとんどない。

その一方で、肝心の予言テキストが出来事の20年以上後に回想として書かれ、しかも封印と部分公開という不透明な経緯をたどったことが、検証を著しく困難にしている。「権威ある認定」と「記録としての厳密さ」は別物である——ファティマはその教訓を最もはっきり示す事例として記録する価値がある。詳細な検証は本サイトの考察記事で扱っている。

収録予言(1件)

本サイトに記録したルシア・サントス(ファティマの幻視者)の予言を、成就状況の判定・原文・検証つきで掲載しています。

🟡 部分的に成就した予言 1件

三次世界大戦と第三の秘密

部分的
📝 記録 1917年 📍 ポルトガル・ファティマ 🔎 資料の確かさ ★★★☆☆

1917年にポルトガルの子どもたちが報告した聖母マリアの出現での预言。第一・第二の秘密はロシアの共産主義化と第二次世界大戦を予見したとされる。第三の秘密は2000年にバチカンが公開し、教皇暗殺未遂(1981年ヨハネ・パウロ2世)との関連が示唆された。

(第三の秘密)白い衣を着た司教が丘の頂に向かって進んでいる。その間、兵士たちの銃弾や矢で倒れ他の司教や神父… ──(原語:ポルトガル語)

出典:ファティマの秘密(第三の秘密)

検証・解説第三の秘密はまだ一部が隠されているという陰謀論も根強い。
  • バチカン公式声明「ファティマのメッセージ」2000年
  • ルシアの回顧録(全4冊)
#ファティマ#聖母マリア#バチカン#第三の秘密

参考文献・出典

  • ルシアの回顧録(全4冊)
  • バチカン公式声明「ファティマのメッセージ」2000年